東京は7月15日ですね。//お盆など

祖先の供養をする行事として、最も知られているのが「お盆」で、東京では7月15日に迎えるのが一般的です。しかし、最も暮らしに溶け込み、また古くから広く行われていた行事でありながら、現在では大きく3つの日程で行われる珍しい行事でもあります。

お盆の来歴は、中国の「仏説盂蘭盆会経」が出自だとの説が有力です。これは経典ではあるのですが、仏教説話の色が濃く、大幅に意訳すれば、釈迦の十大弟子の一人で、居ながらにして世界を俯瞰し声を聴き、心を見通す力を持つ目蓮尊者(モッガラーナ)が、今は亡き父母の恩に報いようと修行に励み、死後の世界を覗き見ると、父は天上界にあったものの、母は餓鬼道に落ちやせ衰えた哀れな姿になっていました。驚いた目蓮尊者は、すぐにご飯を供えて供養しようとするのですが、ご飯は炎に包まれてしまって、口に運ぶことが出来ません。万策尽きて釈迦に相談したところ、7月15日は夏安吾(練成会)の最後の日であり、大勢の僧がそろぞれの過去を反省・懺悔し、更に修行に向う「仏歓喜の日」なので、父母の為に回向を頼むと良いと教えを受けました。この際、釈迦から儀式、作法も伝授され、多くの布施を行い、御馳走を供えて回向を受けることにより、亡母は救われたとされています。尚、「盂蘭盆会」の語源とされる「ウッランバーナ」と言う梵語の原意は「非常な苦しみ」だったりします。

日本で最初に記録に現れるお盆の行事は、推古天皇14(606)年に始まると言われ、その後日本土着の暦による祖先の霊を奉る儀式や、神道の祭祀と混合し、人々の間に根づいていったと言われています。

陰暦7月15日は「中元」と呼ばれていました。これがご存知、夏の贈り物の名称として現在まで残っています。この日は望の正月、春分秋分と並んで、古来より祖霊の訪問を受ける忌日でもありました。

元々、24候や暦ではなく、7月15日という日付によって行われていたため、明治の改暦の際に地方によって日程が分かれました。東京を中心とする大都市圏と農繁期がずれていた東北の一部はそのまま新暦へ移行し、旧暦のまま行うのは関東北部、中国・四国・九州・南西諸島。そしてその他の地域は月遅れのお盆が一般的になっていました。


明治中期以降、労働者の都市集中と学校の夏休みが定着するに従い、事業所や商店の夏期休暇は最も暑くなる8月中旬が多くなります。昭和20年以降は、太平洋戦争の終戦祈念日が8月15日であった事もあって、盆の行事は以前の日程で行う地域でも「盆休み」は月遅れの盆と日程が揃って来ました。

そして、出身地に戻り墳墓に参る、帰省の行事が広がっていきました。もちろんこの行事は、一堂に会した子孫の姿を先祖の霊に披露し、家の栄えによって供養する意味を持ちます。その意味でも、地方でのお盆行事の8月15日への移行はこれからも進んでいくと思われています。

視点を少し変えてみると「盆と正月が一緒に来たような」と言う言葉があるくらい、お盆は祖先を祭る大切な行事であると同時に、民衆の祝祭でもありました。

盆踊りは、庶民の娯楽として最も定着した踊りで、室町中期から発展し、江戸初期に爆発的な隆盛を迎えます。これは、直前に行われる七夕祭りの際に行われる「小町踊り」が「将来良縁を願う」から転化して、古来の「歌垣」的要素が、安定する社会を背景に盆踊りへ習合したとの説もあります。しかし、余りに華美に流れ、淫靡に流れたため、府内禁止の高札が立ち、三都(江戸・大阪・京都)では江戸後期に至っては殆どすたれていましたが、農村地域で綿々と続いていて、明治になって、地方から都市へ逆流して、再度復活したようです。

現在のお盆の形式は、やはり江戸時代に形作られたようです。但し、それはそれぞれの行事の根幹であって、現在の一般的なお盆行事のイメージと言うか、祭祀自体は神仏分離された、明治以降に現在の形になってゆきました。

今のお盆は、お坊様や和尚様が在家を訪問し仏壇にお参りしお勤めを頂くのが一般的です。江戸時代は、在家には仏壇を置かないのが普通で、「魂棚飾り」を設けて、祖先の霊魂を迎え祭る形でした。この棚の前で、僧を招いて読経するのを「棚経」と言いました。

形式は、仏像や祖先の位牌や経木に法名(戒名)を書いた物を真菰(まこも・イネ科の水辺に生える多年草)を敷き詰めた上に奉り、四方に葉の付いた青竹を立て周りを青杉葉の籬 (まがき)で囲いました。青竹に、現在の神社や、正月の結界のように注連縄(菰縄)を結んで、それに素麺や米をはじめ、栗や粟、芋等地方によって様々な物を結んでいたようです。今の感覚からすれば、まさに仏壇なのか神棚なのか判らない形式です。

その他にも、お馴染みの牛馬四足に見立てた、瓜や茄、芋茎(ずいき)で編んだ馬等を飾り、時代が下がるにつれて、盆提灯を掲げるようになりました。

盆提灯の原形は、寛喜2(1230)年に燈された、「盆灯篭(ぼんとうろう)」であると言われます。江戸時代の初期は、魂棚飾りにかける灯篭は、立方体の枠に白紙を張っただけの粗製なもので、一年限りのものでした。その後、提灯(ちょうちん)の形で発展したものと、吉原の夭折した名伎「玉菊」の三回忌にあたる享保13(1728)年に茶屋が申し合わせて作った箱提灯の二つの系統が起こりました。これが融合して、優れた細工師を排出するに至り、「回り灯篭」に代表されるからくり灯篭や、装飾を施した様々形態の提灯が現れ、盆灯篭(提灯)として現在に至っています。また防火の観点から、盆提灯には蝋燭を用いず、「ひょう燭」と呼ばれる背の低い器状の中に太い木綿の芯を蝋で固めた物を用いました。

明治維新後、神仏判然令が出され、お盆は仏事としての色合いが濃くなります。一部の行事は、七夕へ移行し、又、直接仏事に組み込まれない独立した「精霊流し」等の行事へと移行していったようです。

現在のお盆は、12日に「魂棚飾り」から変化した「精霊棚」を設けるか、仏壇の前に飾り物をして、夕方には迎え火を炊きます。14日に芋茎和え、茄とふくべとごま和え等を供え、15日にはハスの葉に白いご飯を包む地方や「送り団子」と称する米団子を供えたりします。瓜や茄の牛馬を供えるのも一般的です。そして、15日か16日に送り火を焚いて、精霊をお送りします。

これが、東京では7月、地方では8月、そして一部の地域では旧暦の日付にそって行われるのですが、勿論、心がこもっていれば形式に縛られることはありません。

今年のお盆を、どのように過ごされますでしょうか?実家に戻れない方も、日頃の感謝を込めて、電話で互いの無事を伝えあうのも良いかも知れませんね。


2004.7/9 一部改稿

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*付記
比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関、民族伝承と祭礼の関係については諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書、専門サイト等をお探し下さいね。