3月3日はご存知お雛祭りの日です。この起源は中国にあり、3月最初の巳(み)の日を忌日として川や海で禊をして厄を払う行事であったと言われています。「上巳(じょうし)の節句」という呼び名が残るのはこのためだったりします。3月3日に固定されたのは室町中期以降であるとの説が有力です。日本で行われるようになった時期については諸説あるのですが、平安中期には原形とも言える物が現れて来るようです。

この禊をする際には、当然ですが本人が水に浸からなくてはなりませんでした。しかし、それでは誰でも出来る訳ではないですし、第一に冷たい。又、禊をする為に遠方まで出掛けた上に寒い思いをするのは嫌だけど、禊をしないで厄が降りかかるのはもっと嫌だと言う、或意味では爛熟しつつあった平安貴族の知恵と言うか、わがままから発生した部分もあったりします。

紙で作った人形(この場合は”ひとかた”)で体を撫でて、身の穢れや災いを人形に移し、それを海や川に流して禊とするようになりました。これなら室内で出来ますし、お天気が良ければ川や海まで自分で流しに行く。ちょっとした遠足みたいなものですし、気候が悪ければ使用人や代表者が流しに行くという、とても実用的な習慣が生まれて、一挙に人気行事となったようです。

人形は古代から呪術や占いに使われていたのですが、平安初期からは宮中を中心に遊具としての性格を持つようになります。これは紙と染色の発達とも歩を合わせているのですが、現在で言う着せ替え人形に近い物で、男女の人形によるままごと遊び的な性格も持っていたようです。この遊びが「ひいな遊び」と呼ばれていました。「ひいな」とは「小さくてかわいらしい」といった意味を持つ言葉で、現在の「ひな」と同意だとされています。つまり、ちょうど定着しつつあった「ひいな遊び」で使っていた人形と「上巳(じょうし)の節句」の禊の行事が結びついて、現在の雛祭りの原形が成立していったとの説が有力なのです。そしてそれが庶民層へ浸透し、各地へ赴任する地方官僚や随身や僧によって、全国へ波及してゆきました。

雛祭りは「桃の節句」とも呼ばれます。古来中国では桃には霊的な力があると考えられており、上巳の行事は桃花による厄払いが主要なものでした。旧暦では今年であれば4月7日となり、ちょうど桃の花が満開の時期に行われます。直接の関連は定かでは無いのですが、この伝承も加わって「人形」「桃の花」「厄払い」の要素が揃いましたが、流し雛と現在のお雛様を飾る「女の子の節句」とはまだ随分開きがあります。

雛祭りが現在の形に近づくのは、江戸時代に入ってからだと言われています。徳川家康の孫、つまり徳川二代将軍徳川秀忠の娘である中宮東福門院和子様は後水尾天皇へ入内し興子(おきこ)内親王をもうけます。これは言うまでもなく徳川政権の朝廷統制策なのですが、寛永6年(1629)の3月3日上巳に7才の祝を兼ねて雛遊びを催し、その際に親王雛の原形となる人形が作られた記録があります。興子内親王は後に即位されて明正天皇となられるのですが、この故事をもって江戸では上位である左側に女びなを飾る習慣が定着しました。また3月3日に定着したのはこれが元だとの説もあります。
 
この事例を受けて三代将軍徳川家光の長女千代姫の7歳の祝に、正保元年(1644)3月1日、諸臣よりひな人形が献上されました。以後大奥では女の子が生まれるとひな人形が贈られる風習が生まれたとされ、それを雛祭りの際に飾るようになったのが、現在の飾り雛人形の元となったのでないかと言われています。
 
延宝年間(1673-1681)に入ると、俳句の歳時記にも「ひな」という言葉がが3月3日の言葉として定着したようで、関西・関東共に都市部から雛祭りが定着し、女性の守護神として広がりつつあった淡島大明神が流し雛の根元であった事ともあいまって、淡島願人坊主によって信仰と共に広められ、急速に全国で雛祭りが行われる様になったようです。

雛祭りのお供えとして付き物なのは、菱餅と蛤(はまぐり)です。菱餅は下から順に緑、白、桃なのですが、これは蓬(よもぎ)餅の上に紅白の餅を並べた事に始まると言われます。蓬は古来より厄を払う草として珍重され、ご存知のように、葉の裏の白い綿毛はお灸に使われる「もぐさ」にもなる漢方薬として薬効の高い事でも知られています。また、真ん中の白を雪に見立てて、桃の花の咲くまだ残雪が残るものの、雪の下では緑の草が萌え出している情景を写したとの解釈もあります。蛤は女子の貞操を表すものであるとの考えが古来よりあり、初期はお供えの器に蛤の貝殻を使ってもいました。これは「貝合わせ」でも使われるように、良く似た形をしていても、ちゃんと一対になる物は一組しかない事に由来していいます。また視点を変えると、旧暦3月3日前後は大潮にあたり、潮干狩りが盛んな時期でもありました。寒い冬から桜の時期を過ごし、水も温んで当時の数少ない娯楽であった潮干狩りでの獲物である蛤に、意味を込めて頂いたとの説もあります。ちなみに節句の日は休日である事も多かったようです。

雛飾りの人形も最初は一般的には「立ち雛」と呼ばれる立像だったのですが、時代が下がるにつれて現在の雛人形に近い物になってゆきます。この変遷は私が言葉でご紹介するより、京都国立博物館のHPに画像付で紹介されていますので、ご覧になって頂いた方が判り易いと思います。江戸中期以降は、雛飾りが余りに豪華になりすぎたため、享保6年(1721)を初めとして、「大雛禁止令」が重ねて出されていて、違反者が実際に入牢した記録も残っていたりします。

「雛祭り」は「上巳の節句」としての厄払いから、徐々に女の子のお祭りとして姿を変えながら今に至っています。「嫁入り」という言葉が現実的で、結婚すると実家から縁が薄くなった儒教時代としての江戸時代に、娘達を思う親の心の現れとして盛んになったとも言われています。

流し雛の昔から、子供達に降りかかる厄を払い、幸せを願う行事である事に変りはありません。そして、家族で祝う雛祭りの思い出が、子供たちの大切な宝物である事もずっと変わらないような気もします。

形だけではなくて、そんな思いも伝える行事であり続ければいいなぁと思っていたりしているのですが。 

長谷川 芳典 様のじぶん更新日記2月23日付けにて私のこのページをリンク頂きました。ありがとうございます。その際、未記述だった雛人形の立ち位置等について補遺のメールをさせて頂きましたので、このページにも追加記述させて頂きます。

一般的には、西日本では男雛が向って右、女雛が左となります。
又、中京以東では逆になるのが普通のようです。

起源に関しては諸説あるのですが、西日本は「京都流」と言われ古来から朝廷の儀式は「左上位」が原則で、女雛の左に男雛が立つので向って右が男雛となります。

上位の概念についても諸説あるのですが、律令が成立する段階では左大臣が右大臣より上位であるように、この概念は成立したようです。
ただ、これは実際の位置ではなくて、言葉での「左右」だとの説もあります。

これに対して中京以東で女雛が左上位を占めるのは徳川家康の孫である興子内親王が、即位されて明正天皇に即位されてから、上位の左に女雛を配置するようになったとの説が有力です。

興子内親王七歳の祝儀自体が、飾り雛の起源ともされていますので、極めて初期からこの飾り方はあったようです。

俗説ですが、朝廷と幕府の鞘当てと言うか、上方と江戸の対抗心の様なもので、あえて左右逆に飾ったとも言われ、名古屋では徳川宗春の時代は将軍吉宗に対抗する意味であえて京都流に雛飾りをしたとの説もあります。

現在の礼法では、どちらが正式だとは決めていないようで地域による差だとの認識が一般的です。

ただ平成天皇の即位の大嘗会の際に、高御座が向って左であった事で流派によっては、「向って右が女雛、左が雄雛」の東京式が正式だとする事もあります。

いずれにしても、雛飾り自体が正式な宮廷の儀式ではないので「古来よりの習慣」というものは無く、また立ち位置の上下関係も夫婦である雛人形には無いとの解釈が、最近は多いようです。

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右大臣・左大臣(あるいは桜と橘の位置)などの位置についての御尋ねも頂いたので再度追加しました。

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基本的にはこれは一定です。

左右が代るのは、内裏雛親王雛だけです。

現在は左大臣、右大臣と呼ばれるのが一般的ですが元々は、貴人を警護する役目なので「随身」と言い「左近衛」「右近衛」となり、「左大臣」「右大臣」となったようです。
出世したと言うべきか、階級のインフレと言うべきか。
ちなみに老人が「左近衛」、若者が「右近衛」でそれぞれの右手に、羽が下を向くように矢を持ちます。

これは飾り段が増えて仕丁(衛士)が現れた際に変化したとの説が有力です。
尚、仕丁は東京では向って右から立傘を持った「笑い上戸」、沓台を持った「泣き上戸」台傘を持った「怒り上戸」の順となりますが各由来はあまりにも諸説あるので控えさせて頂きます。

京都流では持ち物が「ほうき」「ちりとり」「熊手」となります。

こちらは、階級が下落したのではないかと言われています。
大臣からいきなり、間の役職がなくて下男と言うか中間みたいな設定ですものね。

桜と橘も基本的に「左近の桜」「右近の橘」と呼ばれ一定のようです。

蛇足になりますが、三人官女は「式三献」の給仕役なので向って右から「長柄の銚子」「盃」「加えの提子」です。

五人囃子は能の囃方と同じ構成なので、向って右から「謡」「笛」「小鼓」「大鼓(おおかわ)」「太鼓」の順となります。
 

2001.3.3記述