端午の節句について1(来歴等)

5月5日は祝日としての「子供の日」そして暦で言う「端午の節句」にあたります。これも昔は旧暦で行われていた行事なので、今年は6月6日にあたります。



現在は「男の子の節句」の印象が強いのですが、元々は3月3日の「上巳の節句」と並び、5月の端午の日を病気・厄災を払う日として、薬草を摘み薬草で作った人形を門にかけ、菖蒲酒を飲む中国の忌日としての行事が原形であると言われています。尚、入浴するのは御馴染みの「菖蒲湯」では無くて「蘭の湯」だったりしました。



端午」は元々は「月初めの午の日」の意味なのですが、「五」と「午」が同音であるところから、五月の五の日を「端午」「初午」と特別視するようになったと言われます。又、中国の古暦ではそれぞれの月へ北斗七星の運航を元に十二支を当てていて、五月は「午」なのでこれが起源だとする説もあるのだけれど、同音が先なのか、干支の振り分けが先なのかは定説が得られていないようです。「午」は現在の易学にも残るように、「陽で激しい気性」とされており、この為これが重なる端午の節句は、「陽」が重なり激しさがぶつかって災いが多いと考えられ、この日に厄災を払う行事が定着しました。最も古い記述は周代には現れるので、古代から5月5日に定着していた事は間違いないようで、日本では推古天皇の時代(7世紀初頭)5月5日に薬草刈りをした記録が残っています。



背景となる季節感を考えると、現在の太陽暦ではピンとこない部分もあったりします。本来は暑さが増してくる直前に行われていた行事だったったわけで、特に日本では梅雨との関連から盛んになったとも言われています。古代の夏は疫病が流行しやすく、又台風や風水害が起こりやすい季節でもありました。稲作地帯では、本格的農繁期の時期でもあり、植えられた稲の成長に一喜一憂しながら秋の収穫までを過ごす途端となる行事でもあります。又、春に芽生えた薬草を収穫し貯える最後の時期にもあたっていました。



奈良時代には宮中の正式な行事として位置付けられていたようで、戦後、祝日である子供の日を3月3日と5月5日のどちらにするかとの議論の際に、来歴の古さからこの日を押す意見が強かったとの記録もあり、「男の節句」「女の節句」の比較ではなかったようです。又、宮中儀式から派生し、農耕神事としての「田の神」の重要な祭礼日となり、菖蒲や蓬を軒に刺した家に女性だけが忌み篭りを行い、田植えに備える風習が農村には定着していて、これが後の「早乙女神事」の元になった事はほぼ疑いはないようです。現在では「女性の祭り」としての原形は地方によっては残るものの、行われる日が変わっていたり、端午の節句との関連が忘れ去られていたりもするようです。



宮中での神事も初期は中国から伝播した原形に近かかったようで、冠に菖蒲をを付けて(菖蒲鬘)無病息災を祈ったり、菖蒲を玉状にしたものを柱に下げたりするようになり、又馬上で弓を射る騎射の行事が恒例ともなって平安時代まで盛んであったようです。



菖蒲に薬効が有ることは古くから知られていました。煎じて飲むと虫下しや腹痛に効き、打ち身の治療にも使われていたようです。 そしてそこから転じて邪気を払う植物として珍重され、端午の節句行事と菖蒲は切っても切れない関係となりました。鎌倉時代に入ると、菖蒲が「尚武」あるいは「勝負」と同音であるところから、武家の祭りとして武張った行事が盛んとなり、農耕神事と系統が2分化してゆきました。



室町末期頃からは、戦国の動乱の影響もあり、地方や農村部でも武張った行事が浸透してゆきます。武士と農民の境が低くなった時代でもありました。「河原印地」「向かいつぶて」等と呼ばれる、子供たちが東西や地区に別れて石の礫を打ち合う物や、菖蒲の葉で作った刀や槍など(木刀や竹等にも拡大)で戦いごっこをする「印地切」、 菖蒲を縄のように編んで地面をたたき、大きな音を競う「菖蒲叩き」という遊び等があったそうです。その他にも類似の行事が様々形や呼び名で行われていたようです。この遊びの際に、幟を押し立て、盾を並べ、頭や顔を保護する為に、藁や竹で編んだ兜や鎧のようなものや、紙や板で作った類似の物を使用した処から、端午の節句と現在に至る様々な飾り物が直接的に結びつき、寛永年間(1624-28)に禁止令によってに危険な行事は消滅し、「菖蒲叩き」だけが江戸時代を通して残ったとの記録があります。



五月人形の起源として、最初は尚武の昂揚のため、武家屋敷の門や塀などに本物の幟を立て、槍を並べ鎧兜を着せた武者人形を飾るようになりました。庶民はそんな物は飾れないので、弁慶や義経をはじめとする馴染み深い英雄や豪傑人形を飾ったり、疫病の守護神である鍾馗様の人形を飾りましたが、時代がすすむににつれて、坂田金時(金太郎)に代表されるように英雄の範囲 も拡大され、幕末近くなると桃太郎像まで飾られたりしたようです。また時代と共に外飾りは少なくなり、座敷飾りとなってゆき、様々な人形の制作が行われました。座敷飾りが一般的になると武家と庶民の飾りの差異は急速に少なくなり混合した為、雛人形とは違って一つの形式というものは存在していなかったりもします。江戸の街では十軒店、尾張町、麹町には往来に特別な小屋を架けて、芝を敷き築山を築いて人形を配置し、夜も燈火を灯して名物にもなっていました。




*付記

比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関ついては諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書等をお探し下さいね。

二八そばについての考察or辞書・辞典を疑ってみる。

灯かりを点けましょぼんぼりに、お花をあげましょ桃の花。白酒美味いなぁ、うぃヒック。
あっ、失礼しました。色は白いんだけど、どぶろく飲んでました。なので今日の記述は酔った上での放言ってことで。酔った上の事ですよ、酔った上の。ってまことに日本的なリスクへッジから始まった今日の日記です。<=おい!

何か言葉を調べる時、私も辞書を使います。ところがどっこい、自分の専門分野をある程度掘ってくると、辞書の曖昧さと言うか、えーかげんさに愕然とする事があるんですよね。

前にこの日記でも「花魁」について、ちょっと辞書と古文書の関連について書いたのですが、今日は江戸とは切っても切れない、二八蕎麦についてちょこっと触れてみますね。

二八蕎麦、あるいは二八けんどん蕎麦について辞書を引くと、角川の大言海と日本国大辞典以外は、価格が16文なので2×8=16文説を第一に挙げていて、副次的に蕎麦粉と繋ぎのうどん粉の比率が2対8だと説明しています。

この説に力を与えているのも、やっぱり「守貞慢稿」に天保(1764〜1780)の蕎麦屋の品書きに「そば16文」とあることなんですよね。さすがに角川の大言海と日本国大辞典は「一説」としてしか掲載していないんですが、中型以下の辞典は、まるでそれが定説であるように記載しています。

では、配合比率が正しいのかと言うと、多くの絵や図説に「二八うどん」「二八にゅうめん(温かいそうめん)が描かれていることは今では広く知られていて、現在に於いては,蕎麦粉十割の蕎麦に対して蕎麦粉8割、他2割の二八蕎麦と言う呼称はありえても、江戸期の「二八」は配合割合では無い事は、傍証を含めて食物史をかじった者なら当たり前の事が、辞書には未だに反映されていないって言う、とんでもない状況になっています。

あっ、眠くなったので今日はこれまで。続く予定。あくまで予定ですが<=こらこら

3月3日はご存知お雛祭りの日です。この起源は中国にあり、3月最初の巳(み)の日を忌日として川や海で禊をして厄を払う行事であったと言われています。「上巳(じょうし)の節句」という呼び名が残るのはこのためだったりします。3月3日に固定されたのは室町中期以降であるとの説が有力です。日本で行われるようになった時期については諸説あるのですが、平安中期には原形とも言える物が現れて来るようです。

この禊をする際には、当然ですが本人が水に浸からなくてはなりませんでした。しかし、それでは誰でも出来る訳ではないですし、第一に冷たい。又、禊をする為に遠方まで出掛けた上に寒い思いをするのは嫌だけど、禊をしないで厄が降りかかるのはもっと嫌だと言う、或意味では爛熟しつつあった平安貴族の知恵と言うか、わがままから発生した部分もあったりします。

紙で作った人形(この場合は”ひとかた”)で体を撫でて、身の穢れや災いを人形に移し、それを海や川に流して禊とするようになりました。これなら室内で出来ますし、お天気が良ければ川や海まで自分で流しに行く。ちょっとした遠足みたいなものですし、気候が悪ければ使用人や代表者が流しに行くという、とても実用的な習慣が生まれて、一挙に人気行事となったようです。

人形は古代から呪術や占いに使われていたのですが、平安初期からは宮中を中心に遊具としての性格を持つようになります。これは紙と染色の発達とも歩を合わせているのですが、現在で言う着せ替え人形に近い物で、男女の人形によるままごと遊び的な性格も持っていたようです。この遊びが「ひいな遊び」と呼ばれていました。「ひいな」とは「小さくてかわいらしい」といった意味を持つ言葉で、現在の「ひな」と同意だとされています。つまり、ちょうど定着しつつあった「ひいな遊び」で使っていた人形と「上巳(じょうし)の節句」の禊の行事が結びついて、現在の雛祭りの原形が成立していったとの説が有力なのです。そしてそれが庶民層へ浸透し、各地へ赴任する地方官僚や随身や僧によって、全国へ波及してゆきました。

雛祭りは「桃の節句」とも呼ばれます。古来中国では桃には霊的な力があると考えられており、上巳の行事は桃花による厄払いが主要なものでした。旧暦では今年であれば4月7日となり、ちょうど桃の花が満開の時期に行われます。直接の関連は定かでは無いのですが、この伝承も加わって「人形」「桃の花」「厄払い」の要素が揃いましたが、流し雛と現在のお雛様を飾る「女の子の節句」とはまだ随分開きがあります。

雛祭りが現在の形に近づくのは、江戸時代に入ってからだと言われています。徳川家康の孫、つまり徳川二代将軍徳川秀忠の娘である中宮東福門院和子様は後水尾天皇へ入内し興子(おきこ)内親王をもうけます。これは言うまでもなく徳川政権の朝廷統制策なのですが、寛永6年(1629)の3月3日上巳に7才の祝を兼ねて雛遊びを催し、その際に親王雛の原形となる人形が作られた記録があります。興子内親王は後に即位されて明正天皇となられるのですが、この故事をもって江戸では上位である左側に女びなを飾る習慣が定着しました。また3月3日に定着したのはこれが元だとの説もあります。
 
この事例を受けて三代将軍徳川家光の長女千代姫の7歳の祝に、正保元年(1644)3月1日、諸臣よりひな人形が献上されました。以後大奥では女の子が生まれるとひな人形が贈られる風習が生まれたとされ、それを雛祭りの際に飾るようになったのが、現在の飾り雛人形の元となったのでないかと言われています。
 
延宝年間(1673-1681)に入ると、俳句の歳時記にも「ひな」という言葉がが3月3日の言葉として定着したようで、関西・関東共に都市部から雛祭りが定着し、女性の守護神として広がりつつあった淡島大明神が流し雛の根元であった事ともあいまって、淡島願人坊主によって信仰と共に広められ、急速に全国で雛祭りが行われる様になったようです。

雛祭りのお供えとして付き物なのは、菱餅と蛤(はまぐり)です。菱餅は下から順に緑、白、桃なのですが、これは蓬(よもぎ)餅の上に紅白の餅を並べた事に始まると言われます。蓬は古来より厄を払う草として珍重され、ご存知のように、葉の裏の白い綿毛はお灸に使われる「もぐさ」にもなる漢方薬として薬効の高い事でも知られています。また、真ん中の白を雪に見立てて、桃の花の咲くまだ残雪が残るものの、雪の下では緑の草が萌え出している情景を写したとの解釈もあります。蛤は女子の貞操を表すものであるとの考えが古来よりあり、初期はお供えの器に蛤の貝殻を使ってもいました。これは「貝合わせ」でも使われるように、良く似た形をしていても、ちゃんと一対になる物は一組しかない事に由来していいます。また視点を変えると、旧暦3月3日前後は大潮にあたり、潮干狩りが盛んな時期でもありました。寒い冬から桜の時期を過ごし、水も温んで当時の数少ない娯楽であった潮干狩りでの獲物である蛤に、意味を込めて頂いたとの説もあります。ちなみに節句の日は休日である事も多かったようです。

雛飾りの人形も最初は一般的には「立ち雛」と呼ばれる立像だったのですが、時代が下がるにつれて現在の雛人形に近い物になってゆきます。この変遷は私が言葉でご紹介するより、京都国立博物館のHPに画像付で紹介されていますので、ご覧になって頂いた方が判り易いと思います。江戸中期以降は、雛飾りが余りに豪華になりすぎたため、享保6年(1721)を初めとして、「大雛禁止令」が重ねて出されていて、違反者が実際に入牢した記録も残っていたりします。

「雛祭り」は「上巳の節句」としての厄払いから、徐々に女の子のお祭りとして姿を変えながら今に至っています。「嫁入り」という言葉が現実的で、結婚すると実家から縁が薄くなった儒教時代としての江戸時代に、娘達を思う親の心の現れとして盛んになったとも言われています。

流し雛の昔から、子供達に降りかかる厄を払い、幸せを願う行事である事に変りはありません。そして、家族で祝う雛祭りの思い出が、子供たちの大切な宝物である事もずっと変わらないような気もします。

形だけではなくて、そんな思いも伝える行事であり続ければいいなぁと思っていたりしているのですが。 

長谷川 芳典 様のじぶん更新日記2月23日付けにて私のこのページをリンク頂きました。ありがとうございます。その際、未記述だった雛人形の立ち位置等について補遺のメールをさせて頂きましたので、このページにも追加記述させて頂きます。

一般的には、西日本では男雛が向って右、女雛が左となります。
又、中京以東では逆になるのが普通のようです。

起源に関しては諸説あるのですが、西日本は「京都流」と言われ古来から朝廷の儀式は「左上位」が原則で、女雛の左に男雛が立つので向って右が男雛となります。

上位の概念についても諸説あるのですが、律令が成立する段階では左大臣が右大臣より上位であるように、この概念は成立したようです。
ただ、これは実際の位置ではなくて、言葉での「左右」だとの説もあります。

これに対して中京以東で女雛が左上位を占めるのは徳川家康の孫である興子内親王が、即位されて明正天皇に即位されてから、上位の左に女雛を配置するようになったとの説が有力です。

興子内親王七歳の祝儀自体が、飾り雛の起源ともされていますので、極めて初期からこの飾り方はあったようです。

俗説ですが、朝廷と幕府の鞘当てと言うか、上方と江戸の対抗心の様なもので、あえて左右逆に飾ったとも言われ、名古屋では徳川宗春の時代は将軍吉宗に対抗する意味であえて京都流に雛飾りをしたとの説もあります。

現在の礼法では、どちらが正式だとは決めていないようで地域による差だとの認識が一般的です。

ただ平成天皇の即位の大嘗会の際に、高御座が向って左であった事で流派によっては、「向って右が女雛、左が雄雛」の東京式が正式だとする事もあります。

いずれにしても、雛飾り自体が正式な宮廷の儀式ではないので「古来よりの習慣」というものは無く、また立ち位置の上下関係も夫婦である雛人形には無いとの解釈が、最近は多いようです。

                                                                                                                                                              • -

右大臣・左大臣(あるいは桜と橘の位置)などの位置についての御尋ねも頂いたので再度追加しました。

                                                                                                                                                              • -

基本的にはこれは一定です。

左右が代るのは、内裏雛親王雛だけです。

現在は左大臣、右大臣と呼ばれるのが一般的ですが元々は、貴人を警護する役目なので「随身」と言い「左近衛」「右近衛」となり、「左大臣」「右大臣」となったようです。
出世したと言うべきか、階級のインフレと言うべきか。
ちなみに老人が「左近衛」、若者が「右近衛」でそれぞれの右手に、羽が下を向くように矢を持ちます。

これは飾り段が増えて仕丁(衛士)が現れた際に変化したとの説が有力です。
尚、仕丁は東京では向って右から立傘を持った「笑い上戸」、沓台を持った「泣き上戸」台傘を持った「怒り上戸」の順となりますが各由来はあまりにも諸説あるので控えさせて頂きます。

京都流では持ち物が「ほうき」「ちりとり」「熊手」となります。

こちらは、階級が下落したのではないかと言われています。
大臣からいきなり、間の役職がなくて下男と言うか中間みたいな設定ですものね。

桜と橘も基本的に「左近の桜」「右近の橘」と呼ばれ一定のようです。

蛇足になりますが、三人官女は「式三献」の給仕役なので向って右から「長柄の銚子」「盃」「加えの提子」です。

五人囃子は能の囃方と同じ構成なので、向って右から「謡」「笛」「小鼓」「大鼓(おおかわ)」「太鼓」の順となります。
 

2001.3.3記述

こんばんは。ラッシャー木村です。国際プロレスは不滅です(古)

それはともかく、長い間文章を書いていなかったので、なにはともあれ、何をか綴る練習をせんとぞ思いける。

ありおりはべりいまそがり。<=なに?

すすまんなぁ。まじめに書かねば。人はやっぱり挨拶からだよね。

はじめまして。めぐみと申します。「オマエ誰だ?」と思われるでしょうが、単なるソープ嬢です。花のお江戸の吉原を題材に採った「吉原遊び江戸の日々」というサイトを運営しているのですが、もう3年更新していません。

エヘンっ!<=威張るなよ!

でも一応、エキサイトの

人文科学&芸術> 歴史> 日本史 >江戸のTOPサイトになって早、4年になります。ありがとうエキサイトさん。

http://peach.excite.co.jp/education_school/cultural_science_art/history/history_of_japan/edo

前は日本史のTOPサイトだったんですが、昨年は「武蔵」今年は「新撰組」の検索が多くて、TOP5からは落ちちゃいました。

でも、世の中捨てたもんじゃないです。江戸ではTOPですから。って、これはマジで自慢じゃ無くて、エキサイトさんの見識だと思っています。

歴史系の人気サイトってほんと、パクリサイトが多いんですよね。あるいは、ちょっと古い文献からの無断転載。特に吉原関係はパクリや無断転載、引用を隠したそのまんま、或いは、研究論文のつまみ食い、無茶苦茶でございますがなぁ(花菱アチャコ様風)

それともう一つあるのが、「守貞謾稿」の丸写し。特に岩波文庫版が出てからは、これが酷いんだよね。ってまだ、原文に当たってあればマシなんだけど、雑学本に「守貞謾稿によれば」と書いてあるのをそのまま写しているのが、すごく多いんだよね。

 代表的な例を挙げると「花魁(おいらん)」という言葉の起源。ってこれは、なんと、かなり有名な辞書も、守貞謾稿が取り上げている中の一説をそのまま使っちゃてるんだけど、まぁ、言語学者様は民俗学者様でも、歴史学者様でも無いので大目に見るとしても、そのまんまWWW上に、まるで自分の見識のように発表しているってのはドウヨ?

「おいらの姉様と言ったのが訛って」等と書いてあるのは、みんな同じ穴のムジナ。ってそもそもムジナって何よ?ムジナ自体が、アナグマの別名かタヌキの別名か、はっきりしないんだよね、って関係無いけど。

ここで、出典を書くと、それもまたすぐにパクラれるんで書かないけど、花魁の語源に付いては、まだ定説は無い。守貞謾稿と並んで良く雑学本に引用される「嬉遊笑覧(1830 年)」は別説(「おいらなる」の転化で、「いつちよく咲いたおいらが桜かな」を傍証)だし、そもそも守貞謾稿も1800年代中盤に書かれた物で、確かにそれ以前の古文書は当たっているんだけど、そもそもこの文を書き始めた動機が、天保8年(1839年) 江戸に来た時に上方とあまりにも風俗が違うのに驚き、記録をはじめたんだよね。って明治維新まで、30年しかないじゃん。

単純に考えれば、守貞謾稿が書かれてから今年まで約150年なんだけど、江戸開府からそれまでは約250年、新吉原が出来て(1657年)からでも130-40年、「花魁」と言う言葉が最初に文献に現れてからも70年以上経っているんだよね。70年前のことを、原典を挙げず書いてあることを、ありがたがって鵜呑みにするなよ、まったく。

原典を挙げない江戸学って、三田村鳶魚さんに始まってるんで、類友って言うか正式な後継者だって言われたら、ギャフンなんだけど、少なくても自分で調べたみたいな顔で、サイト作らないで欲しいなぁとは思う。

一例としてあげると、上記の三田村鳶魚さんが編集している「鼠璞十種」上巻(中央公論社1988年再版)の。『即事考』を引用すると

或人予に、遊女の全盛をおいらんと云、文字いかゞと問。予答、松位は定り也、おいらんは老乱成也、其故は、容儀美顔に心とろけ、老も乱れて傾国傾城、我本心を失ふにたとへたるべし、酒乱狂乱と云にひとし。都て老は分別有て、世上の動静にも真正を心とする也。然ども此美顔に乱るゝの謂成べし。

以上引用

で、ざっぱに言えば「年寄りだって、我を忘れて夢中になっちゃうよ」ってことの「老乱(おいらん)を語源としているし、他にも「美貌だから、人を騙すのに「尾」はいらない」を始め、駄洒落系も山ほどあるんだよね。このことは、いつかもうちょっと詳しくまとめようと思ってるのでこのへんで。

■ まぁ、山崎拓さんを選挙で破って、卑しくも「革新県政時代から、政治意識の高い伝統を持つ福岡県民」様の意思で代議士様になられた古賀潤一郎先生でさえ、大学を出たかどうかっていう20年前の自分自身の事でさえ記憶が曖昧なんだから、「古老に聞いた」とかの記述を鵜呑みして、何か事実が判るのかい、まったく。
と時事ネタでまとめて、今日はここまで。ちゃんちゃん。